男子三日会わざれば刮目して見よ
■士別三日、即更刮目相待
孫権 ( そんけん ) | 呂蒙 ( りょもう ) | 魯粛 ( ろしゅく ) |
「呉下の阿蒙」という言葉があります。これは、進歩のない人間、学問のないつまらない者という意味で使われている故事成語です。阿蒙とは、中国の三国志時代、呉に仕えていた武将、呂蒙のことです。(名前に“阿”をつけると、〜〜ちゃんといった感じの愛称になります。)
呂蒙は武勇に優れた若手の武将でしたが、学問には全く興味を示しませんでした。ある時、呉王である孫権が、呂蒙に言いました。
「その方は、今や要職にある。私の薦める本を読み、勉強をして眼を開かなくてはいけない。」
すると呂蒙はこたえました。
「お言葉ですが、軍中にあっては常にプライオリティの高いタスクでいっぱいです。おそらく読書などする暇がありません。」
孫権は重ねてこう言いました。
「何も私は、おまえに経書を学んで博士になれというのではない。少しは色々な本を読んで、見識を深めてほしいのだ。読書は必ず役に立つ。おまえは多忙だというけれど、わたしと比べてどうだろう。わたしも多忙ではあったが、若い頃に一通りの本は読んだ。
国家を経営するようになってからは、歴史書や兵法書を読み、大局観と戦略的思考とを身につけた。これは自分でも大いに役に立ったと思う。おまえは頭も良いから、学べば必ずものになる。学ばないという法はない。」
国王にここまで言われたら、やらざるをえません。呂蒙は発奮して、軍議のかたわら勉学にも本腰を入れ、やがて本職の儒学者たちをも凌ぐほどの読書量になったといいます。
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ある時、軍司令官として呂蒙の前任者であり、知識人としても名高い魯粛が呂蒙の陣営を通りがかりました。魯粛は、勇猛ではあっても学の無い呂蒙のことを「彼とは話しても無駄だ」と内心軽んじていたため、敢えて挨拶に出向こうとはしませんでした。
しかしある人から「呂蒙将軍の名声は日に日に高まっております。昔のように彼と接してはいけません。お訪ねになられるべきです」と諭され、半信半疑で呂蒙のもとに出向きました。
語り合ってみると、なるほど、呂蒙は以前とは比べものにならぬほど豊かな学識をそなえた人物へと変貌を遂げていました。驚いた魯粛は、呂蒙の背中を軽く叩いて、
「私は君が、ただ武勇一辺倒の人だと思っていた。しかし今では学識も豊かで、昔の“呉下の阿蒙(呉の蒙くん)”とは見違えるようだ!」
と言いました。
これに対して呂蒙は、胸を張ってこう答えました。
「男子三日会わざれば刮目して見よ!士たるものは、別れて三日もすれば大いに成長しているものであって、次に会う時には目をこすって迎えねばなりません。」
実にすがすがしいエピソードです。呂蒙の成長ぶりは誠に頼もしく感じますし、それを認める上司である魯粛や、部下思いの孫権王の真情もすばらしいものです。
『三国志』において、呉は、人材にも恵まれ、団結力があり、最も堅実に完成された組織です。その基盤には、こうして勉強することを尊び、成長を好ましく思い、お互いを認め合う風土があったのではないでしょうか。私たちも、彼らのようにありたいものです。
(お時間のある方には、ライブラリにある吉川英治大全集『三国志』を読むことをお奨めします)
(出典)【三国志・呉書・呂蒙伝】注引【江表伝】より
粛拊蒙背曰、「吾謂大弟但有武略耳。至於今者、學識英博、非復呉下阿蒙。」蒙曰「士別三日、即更刮目相待。(後略)」
(書き下し)
粛(しゅく) 、蒙(もう)の背を拊(う)ちて曰く、「吾(わ)れ 謂 ( おも )えらく、 大弟 ( たいてい ) 但 ( た ) だ武略有るのみと。今に至りて、學識英博、 復 ( ま )た呉下の阿蒙に 非 ( あら ) ず」と。蒙曰く、「士別れて三日なれば、 即 ( すなわ )ち更に 刮目 ( かつもく )して 相 ( あい ) 待つべし」と。
(語注)
○拊:うつ。軽くたたく。
○大弟(たいてい):同僚で年少の者を呼ぶ敬称。
○刮目(かつもく):目をこすってよく見る事。
「三日会わざれば刮目して見よ」=「分別3天乱目相看」(中国の言い方)。面白いです!!!(^O^)/
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常に前に進む人間に送る言葉ですね